寺尾聰の生い立ち・学歴・家族構成を調査!姉は2人で退学や留年も?

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寺尾聰さんと言えば、俳優、ミュージシャンとして

活躍されています。

石原軍団の若手有望株として

俳優デビューしてから渋い役柄を演じることが多く

多くのドラマ、映画に出演しています。

そんな寺尾聰さんの生い立ち、学歴、家族構成

2人の姉について調べてみました。

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目次

寺尾聰の生い立ち・経歴は?

生い立ち

寺尾聰

寺尾聰さんは、神奈川県横浜市保土ケ谷区

3人姉弟の末っ子長男として生まれました。

出生後は東京都目黒区で育ちます。

幼少期から野球をやっていて

4番バッターを務めるほどの腕前だったようです。

野球以外にも、元気が良く

喧嘩もよくしていたそうです。

野球をしていただけあって

腕っぷしは強かったのではないかと思います。

身長も176cmと背が高いので目立っていたのでしょう。

父親が劇団の創設者という境遇に反発し

音楽活動をするようになります。

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経歴

寺尾聰さんは、

1965年、18歳の時にカレッジ・フォーク・グループ

『ザ・サベージ』を結成します。

寺尾聰

そして翌年1966年に『いつまでもいつまでも』でデビューし

デビュー曲と2枚目の『この手のひらに愛を』が大ヒットしました。

大ヒットしたのにも関わらず脱退しています。

脱退の理由は明かされていませんが、

目指す音楽が違ったのかもしれません。

その後、1968年に『ザ・ホワイト・キックス』という

グループ・サウンズに加入しますが、

シングル1枚をリリースして解散しています。

寺尾聰

やはり音楽性の違いがあったのではないかと思います。

寺尾聰さんは、グループでの活動ではなく

ソロ活動に力を入れていきます。

1981年には、一度は耳にしたことがある

『ルビーの指環』をリリースします。

ルビーの指環は134万枚の大ヒットを記録し、

オリコンランキング1位に輝き

第23回日本レコード大賞しました。

寺尾聰

「ルビーの指環」「SHADOW CITY」「出航SASURAI」の

3曲がザ・ベストテンで同時に10位以内にランクインするという

異例の快挙も成し遂げました。

若い世代の人は俳優のイメージが強いですが

ミュージシャンとしても凄かったのがわかりますね。

ザ・サベージ結成からソロ活動まで

順調に曲をリリースできたのも

寺尾聰さんの音楽センスが当時から

あったからではないかと思います。

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俳優デビューのきっかけ

寺尾聰

1968年、『ザ・ホワイト・キックス』を解散した後に

石原裕次郎製作・主演の映画『黒部の太陽』で俳優デビューをします。

俳優デビューの明確なきっかけは明かされていませんが

石原軍団に入りした理由は明かされていました。

きっかけは父親の宇野重吉さんでした。

寺尾聰さんは父親の劇団『劇団民藝』の

研修生としての入団を希望しましたが、

宇野重吉さんが

「たとえ研修生扱いでもマスコミは親の七光りとして見るだろう」

という理由で、

懇意だった石原裕次郎さんを紹介したようです。

寺尾聰

子供の事を思っての決断だったのでしょうね。

子を思う親の優しさですね。

こうして寺尾聰さんは石原プロモーション制作の

アクションドラマで活躍していきます。

俳優、寺尾聰さんを有名にしたテレビドラマは

1979年から放送された『西部警察』の松田刑事役で

知名度も人気も得ました。

寺尾聰

このころにサングラスをかけていたので

サングラスのイメージが定着したのではないかと思います。

その後は「男はつらいよ」にも出演し

数々のドラマ映画に出演していきます。

日本アカデミー賞では

最優秀主演男優賞2回
優秀主演男優賞2回
優秀助演男優賞1回

の、計5回も受賞します。

その他にも数多くの受賞をしています。

すごい功績ですね。

ミュージシャン、俳優と

多才な才能を持っていることがわかりますね。

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寺尾聰の学歴は?やんちゃすぎて退学や留年も!

寺尾聰

寺尾聰さんの学歴はこちら。

中学校:目黒区立第十中学校
高校:法政大学第二高校(退学)
    和光学園高校
専門学校:文化学院

中学生時代は野球に打ち込んでいました。

野球は上手くチームではエースだったようです。

野球をしていたため、高校には

甲子園を目指し、法政大学第二高校に進学しています。

法政大学第二高校の野球部は強豪校で

夏の甲子園に出場し、春の甲子園では

優勝をしていた学校でした。

寺尾聰さんは野球部に入部をしましたが

練習にはほとんど参加することはありませんでした。

ケンカを繰り返し警察沙汰になってしまい

退学処分になってしまったようです。

しかも、退学は入学した直後だったようです。

入学した直後ということは

4月か5月ごろだったのではないかと思います。

退学後は、和光学園高校に入学して

高校生活をやり直すことになります。

しかし、この高校でも生活は落ち着かず、

昼食に出前を取るなどの仰天エピソードがありました。

高校の昼食に出前とはやることが意外すぎますね。

この話は、現在もこの高校の伝説となっているようです。

さらに、1年生を2度留年して、1年生を3年連続でやったそうです。

留年した時に母は

「めったにないことだ」

と、言ってお赤飯を焚いてくれたのだとか。

通常おめでたい時に炊くものでしょうが、

留年してお赤飯とはびっっくりですね。

ユニークなお母さんだったようです。

また、留年をしても高校を辞めることなく卒業をしたそうです。

高校を卒業する時には20歳を超えていました。

高校卒業後は、大学に進学せず

専門学校に進学しています。

専門学校在学中にバンド活動をはじめたそうです。

途中で辞めることなく

しっかりと卒業したのは素晴らしいことですよね。

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寺尾聰の家族構成は?芸能一家で姉は2人!

寺尾聰

寺尾聰さんは5人家族です。

劇団民藝の創設者である父、宇野重吉さん

ダンサーで女優でもある母、関志保子さん

そして、姉が2人います。

寺尾聰

父、宇野重吉さんは、

『劇団民藝』を設立し、日本の演劇発展に大きく貢献しています。

俳優としてだけでなく、映画監督としても活躍しました。

1981年に演劇の発展に尽力したことで、紫綬褒章を受章しています。

また、映画『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』で

親子共演を果たしています。

寺尾聰

親子共演とは素晴らしいですね。

寺尾聰さんは、幼い頃から父の演劇を見ていて

俳優としての基礎を教えられていたので

自身がデビューしてから困ることがなかったそうです。

俳優になる前から基礎ができていたのがわかります。

なるべくして、俳優になったのかもしれませんね。

母、関志保子さんは

東京の新宿にあった大衆劇場

「ムーランルージュ新宿座」でダンサーをしていました。

寺尾聰

日本初のドラマに出演した経験があり、結婚後は引退して家庭に入りました。

関志保子さんはとても上品な方だったそうです。

お姉さん2人は、一般人のため

名前などは公表されていません。

父、母が芸能関係の仕事だったので

品があり美しい方だったのではないかと思います。

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